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2009年 ドイツ[Deutschland]での旅行・生活

第二次世界大戦中のベルリン[Berlin]を物語る場所


ベーベル広場[Bebelplatz]

ベルリン国立歌劇場[Staatsoper]の隣にベーベル広場[Bebelplatz]があります。
1933年のある夜、ナチスによってここで多くの非ドイツ的であるとみなされた本が燃やされました。
広場の中央には焚書があったことを示しているプレートがあり、その近くには地下を覗くことができるガラスがあります。
地下には空間があり、空っぽの本棚が置かれています。
ここで焚書が行われたことを忘れないための記念碑です。

 
 
ヴァンゼー会議記念館[Gedenkstätte Haus der Wannsee-Konferenz] ヴァンゼー会議記念館[Gedenkstätte Haus der Wannsee-Konferenz]

ベルリン[Berlin]郊外、ポツダム[Potsdam]に行く途中にヴァン湖[Wannsee]という湖があります。
この湖畔で1942年ナチス上層部の会議が開かれ、ユダヤ人の移送と殺害の計画について話し合われました。
現在会議の行われた場はヴァンゼー会議記念館[Gedenkstätte Haus der Wannsee-Konferenz]となっていて、無料で見学することができます。
当時の資料や写真などが展示され、どのようにユダヤ人が迫害されていったのかを知ることができます。

 
 
グルーネヴァルト駅17番線の記念碑[Das Mahnmal am Bahnhof Grunewald, Gleis 17] グルーネヴァルト駅17番線の記念碑[Das Mahnmal am Bahnhof Grunewald, Gleis 17] グルーネヴァルト駅17番線の記念碑[Das Mahnmal am Bahnhof Grunewald, Gleis 17] グルーネヴァルト駅17番線の記念碑[Das Mahnmal am Bahnhof Grunewald, Gleis 17]

ベルリン西部にグルーネヴァルト[Grunewald]というSバーンの駅があります。
1941年から1945年の間、この駅から5万人以上のユダヤ人が東方の強制収容所・絶滅収容所へ移送されました。
現在は使われていない17番線が記念碑[Das Mahnmal am Bahnhof Grunewald, Gleis 17]として残されています。
17番線には鉄板が敷き詰められ、1枚1枚の鉄板に、何月何日、何人のユダヤ人がどこへ移送されたかということが書かれています。
敷き詰められた数多くの鉄板を見ると、どれだけ多くの方々が移送されていったのかがわかります。

 
 
ローゼン通りの記念碑[Denkmal Rosenstraße] ローゼン通りの記念碑[Denkmal Rosenstraße] キンダートランスポートの記念碑[Denkmal für Kindertransport]

街を歩いていると、彫像や記念碑などを目にすることがあります。
最初は眺めているだけだったのですが、碑文を読んだりいろいろ調べたりしてみると、そこで起こった過去の出来事を知ったり、どのような経緯で建てられたのかがわかりました。
左の写真はハッケシャーマルクト駅[Hackescher Markt]の近く、ローゼン通り[Rosenstraße]にある記念碑です。
ここで1943年、ユダヤ人である夫や子供を連行された女性たちが集結し、抗議するという事件が起きました。
最終的に拘束された人々は釈放され、それぞれの家へ帰ることができました。
真ん中の写真は左の記念碑がある公園と同じ公園内にある記念碑です。
ナチスがドイツを支配していた時代、ユダヤ人の方々は公共の場所にあるベンチに座ることを禁じられていたそうです。
右の写真はフリードリッヒシュトラーセ駅[Friedrichstraße]の前にある記念碑です。
東方へ移送されるユダヤ人家族と、ドイツやそのほかの国々からユダヤ人の子供たちを集団で移住させたキンダートランスポート[Kindertransport]によってイギリスなどの西の国々へ向かう子どもたちの像です。
キンダートランスポートの記念碑はポーランドのグダンスク[Danzig/Gdańsk]でも見ました。

 
 
アンネフランクセンター[Anne Frank Zentrum] オットーヴァイトの盲人作業所記念館[Museum Blidenwelkstatt Otto Weidt] オットーヴァイトの盲人作業所記念館[Museum Blidenwelkstatt Otto Weidt]

ハッケシェヘーフェ[Hackesche Häfe]のすぐ隣の小路にアンネフランクセンター[Anne Frank Zentrum]とオットーヴァイトの盲人作業所記念館[Museum Blidenwelkstatt Otto Weidt]があります。
アンネフランクセンターでは彼女の人生を資料や写真で振り返り、その当時の時代背景などを学ぶことができました。
オットーヴァイト氏はドイツ人ですが、現在記念館がある場所で箒などを作る作業所を経営していて、多くのユダヤ人を雇っていた人物です。
ナチスの迫害が激しくなり、従業員だったユダヤ人家族を作業所内に匿ったり、支援したりしました。
記念館には作業所内の様子が再現されていたり、関わった方々の写真や障害が紹介されていたり、無料で見学できるのですが、充実した展示内容でした。
隠れ家だった場所も見ることができます。

 
 
つまづきの石[Stolpersteine]

ベルリンの街を歩いていると、建物の前に写真のような金色の小さなプレートを見かけることがあります。
これは「つまづきの石[Stolperstein]」と呼ばれるもので、かつてここにユダヤ人の方々が住んでいたことを示しています。
ベルリン以外のドイツの都市でも見ましたし、オーストリアでも見かけました。

 
 
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑[Denkmal für die ermordeten Juden Europas]

ブランデンブルク門[Brandenburger Tor]のすぐ近くに虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑[Denkmal für die ermordeten Juden Europas]があります。
以前訪れたことがあったのですが、再度地下の情報センターを見学しました。
ドイツ語を勉強したおかげで前回よりも理解が深まりました。
見学を終えて地上に戻り、大きなブロックの記念碑を見ていると、いろいろ考えさせられました。

 
 
反戦博物館[Anti-Kriegs-Museum] 反戦博物館[Anti-Kriegs-Museum] 反戦博物館[Anti-Kriegs-Museum]

ベルリンには日本のガイドブックにはあまり載っていない小さな博物館もたくさんあります。
この反戦博物館[Anti-Kriegs-Museum]も目立たない場所にあり小さな博物館ですが、展示されているものはとても興味深く、とても勉強になりました。
さらに地下には実際に使われていた防空壕が残されていて博物館の方に案内していただきました。
防空壕内には2段ベット、救急箱、ヘルメットなどが展示されていて、それらは全て本物だとおっしゃっていました。
また、壁には何かを数えたしるしが残されいて、ある女性が空襲の数を数えた跡だと教えていただきました。
空襲警報の音をスピーカーから流してくれて、日本と同じような音だったので驚きました。

 
 
カイザーヴィルヘルム記念教会[Kaiser-Wilhelm-Gedächtnis-Kirche] カイザーヴィルヘルム記念教会[Kaiser-Wilhelm-Gedächtnis-Kirche]

ツォー駅[Zoologischer Garten]の近くに破壊されたままのカイザーヴィルヘルム記念教会[Kaiser-Wilhelm-Gedächtnis-Kirche]が残されています。
この教会は19世紀に建てられ、1943年の空襲で破壊されましたが、そのままの姿で保存されています。
現在は新しい塔のようなビルのような外観の新しい教会が建てられ、内部の青いステンドグラスがとてもきれいでした。

 
 
ドイツ抵抗運動記念館[Gedenkstätte Deutscher&nbspWiderstand]

ティーアガルテン[Tiergarten]の近くにシュタウフェンベルク通り[Stauffenbergstraße]という通りがあります。
この通りは、映画「ワルキューレ」の中でアドルフヒトラー[Adolf Hitler]の暗殺を計画したクラウスフォンシュタウフェンベルク大佐[Kraus von Stauffenberg]の名前をとった通りです。 彼は現在のポーランドにあった総統大本営で暗殺計画を実行し、飛行機でベルリンへ戻り、計画の第2段階を実行しようとしていました。
しかし暗殺が失敗して逆に追われる立場になってしまい、最後は包囲され、処刑されてしまいました。
ベルリンで大佐が指揮を執っていたのが、現在のシュタウフェンベルク通り周辺の、当時ベンドラーブロックと呼ばれていたドイツ軍陸軍司令部の建物でした。
現在この建物はドイツ抵抗運動記念館[Gedenkstätte Deutscher Widerstand]となっており、大佐らが銃殺された中庭にはこの事件の記念碑があります。

 
 
総統地下壕[Führerbunker]

虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑の近くを歩いているときにある案内板を見つけました。
その案内板には総統地下壕[Führerbunker]と書かれていました。
それは駐車場に立てられていたのですが、その駐車場の地下に総統地下壕があったということなのです。
ヒトラーは第二次世界大戦末期この地下壕に入り、ドイツ降伏数日前に自殺しました。
現在でも地下壕の大部分は駐車場の下に埋まっているということです。

 
 






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